ジャンル• 『若き日の友情-辻邦生・北杜夫往復書簡』新潮社 2010、のち文庫 編著 [ ]• いずれにしても、ユリアヌスは幼くして親なし児となってしまったのだった。
田川建三: 「イエスという男」• バワーソック、62頁。
各巻に解説・解題を収録• 、フランス文学科 現・フランス語圏文化学科 教授等を歴任し、後年まで教鞭を執る。 ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。
18ポール・リクールや、ミシェル・ド・セルトーの歴史叙述の思想を遠く仰いだ。
その背後にはニコメディアの大司教と首都コンスタティノポリスの宮廷を牛耳る宦官たちの影があった。
5世紀の教会史叙述にみられるユリアヌス治下の混乱の描写にはその苦悩がさまざまににじむ。
『』の著者である南川高志氏によると、コンスタンティウス2世の取り巻きが起こした事件だと推測している。
難を逃れた兄ガルスとともに永く幽閉されるもその間に学問に傾倒していき、皇族とは無縁の人生を歩んでいくはずだった。
『時の終りへの旅』筑摩書房 1977• 「日本ほど翻訳が盛んな国は、そんなに無いのでは」と、 翻訳に従事されておられる先生方に日頃から感謝していますが、 本書みたいな 多分殆ど知られていない ユリアヌスに関する貴重な伝記までも、翻訳出版して頂いていることを知り、 改めて、感謝の念を深くしました。
副帝ユリアヌス 紀元355年、ユリアヌスは24歳で副帝となった。
本書の探求はそのような問いに発している。
コンスタンティヌス大帝の甥 おい。
ですから、 戦いの素人ではありませんでした。
」とあるが、現行版(2013年)では、「ギリシア古典に通じ、古来の伝統宗教を尊重して宗教寛容令を出し、キリスト教優遇を廃止した。 そのあり得ないことが生じたのは、 ユリアヌスがローマ軍に見放されていたのだろうと考えるのが、常識的な判断だと思います。 E,ルナン: 「パウロ」• ユリアヌス誕生から青年時代まで ユリアヌス生誕 ときの皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)の弟であるユリウス・コンスタンティウスと、小アジアの貴族の娘であるバシリナの子として、ユリアヌスは生まれた。
3彼らは居住する土地の位置から、ブリタンニア(現イギリス)からライン川へと穀物が送られる水路を押さえていた。
ユリアヌスが、人間的にも成熟して、 政治とは何か、 統治の「こつ」は、こういうところにあるのだな、 ということを理解して、 20~30年間 ローマ皇帝として統治していたら、 多分ローマ帝国の歴史が変わっていたのだろう、と感じられます。
ぜひお手にとってご覧いただければとねがってやまない。 そして攻勢にでたローマ軍に耐えきれず、アラマンニ族軍は潰走を始めたのだった。 没後はヴェルレーヌと並び記念プレートが掲げられている。
17そのような状態を制した、というよりもたった1人生き残ったのがユリアヌス帝である。
下手人は不明だが、コンスタンティヌス帝の3人の息子か、その背後にいる宦官を中心とした勢力であるのは間違いないであろう。